妊娠中絶にともなう慰謝料請求

妊娠中絶にともなう慰謝料請求

 塩飽紘章

1 はじめに

男女間での慰謝料請求というと「離婚」を思い起こされる方が多いと思いますが,離婚していない男女間でも,その交際関係のなかで精神的苦痛を被ったときは慰謝料請求が認められるケースがあります。 今回は,そういったケースの中でも,“妊娠したが中絶手術をしたケース”に焦点を絞って,裁判例も参照しながら慰謝料請求の可能性について検討していきます。 まず,前提として,人工妊娠中絶について基本的な知識を確認しておきたいと思います。 人工妊娠中絶は,人工的な手段を用いて妊娠という生理的なプロセスを中断させることをいいますが,母体保護法で適法に行える場合が限定されています。 母体保護法は,妊娠後から妊娠22週未満の期間内に,同法指定の資格をもつ医師による人工妊娠中絶手術によって行われる人工妊娠中絶のみ認めています。 また,妊娠は母体への影響が大きいことから,人工妊娠中絶手術を行う場合にはある程度早期に対応することが推奨されています。具体的には妊娠6~9週が母胎へのリスクも少なく,妥当な期間と考えられているようです。 加えて,指定医による手術に要する費用は,妊娠後の経過期間に応じて上昇傾向にあることが多いようです。 こうした事情から,妊娠が発覚しても結婚の合意に至れないときや養育費など経済的な負担が難しいときには速やかな妊娠中絶が行われる傾向にあると推察されます。 一方で,実際にいくつかの生の事件に触れていると,妊娠した女性のなかには,仮に経済的事情等があったとしても,真意では中絶手術を受けることを望まない方が少なくないように実感しています。 今回検討したいテーマは,妊娠によって女性だけが肉体的・精神的苦痛の負担を余儀なくされるという性差を背景に,望まない妊娠について女性が中絶手術を行った場合に,女性から男性に対して慰謝料請求ができるかというものです。  

2 不法行為の成立要件

民法が定める損害賠償請求の根拠のうち,契約などの法律行為以外の事実行為から損害が発生する場合は,不法行為(民法709条)が妥当します。 不法行為が成立し,慰謝料請求が正当なものとして認められるためには,

① 人の権利または法律上保護される利益を,意図的に,あるいは不注意に基づく行為によって侵害され,

② ①の結果として精神的苦痛を被ったこと

の2点が必要となります。 これはざっくりとした理解ですが,今回のテーマで中絶を余儀なくされた女性が男性を相手に請求する場合にも①と②が必要になると考えていただければ幸いです。 今回のテーマとの関係で留意すべき点として次のようなことが指摘できます。 ①…女性が侵害される法律上保護される利益は具体的にどんな内容か,どこまで行けばこれを侵害する行為となるのか ②…精神的苦痛に相当する慰謝料の金額はどのくらいか,手術費用なども男性に負担させられるのか こうした問題意識で裁判例を見てみましょう。  

3 裁判例

東京高等裁判所平成21年10月15日判決は最近の裁判例というにはやや時間が経っているようにも感じますが,今回のテーマに沿った事件について判断されたものです。 東京地方裁判所平成30年1月11日判決など最近の裁判例にもその影響を及ぼしているのではないかと考えています。 事案のおおまかな内容としては, 結婚相談所で知り合い交際関係を結んだ男性Aと女性Bとの間で避妊具を用いない性交渉がありましたが,やがて破局となり,交際終了後にBが産婦人科を受診したところ,医師から妊娠16週ないし17週で中絶手術のリミットまで4週間程度であると診断されるに至ったため,Bが自己の判断で人工妊娠中絶手術を受け堕胎した。 Aは,Bから診断内容について聞き及んだが,「正直どうしたらいいかわからない」との対応しかとらず,B一人にその決定を委ねていた。 というものです。 まず,東京高裁は①に関して, 「胎児が母体外において生命を保持することができない時期に,人工的に胎児等を母体外に排出する道を選択せざるを得ない場合においては,母体は,選択決定をしなければならない事態に立ち至った時点から,直接的に身体的及び精神的苦痛にさらされるとともに,その結果から生ずる経済的負担をせざるを得ないのであるが,それらの苦痛や負担は,控訴人と被控訴人が共同で行った性行為に由来するものであって,その行為に源を発しその結果として生ずるものであるから,控訴人と被控訴人とが等しくそれらによる不利益を分担すべき筋合いのものである」 として,妊娠したことによる肉体的・精神的苦痛といった「不利益」は,女性だけに負担させるのではなく当事者の男女で分担すべきとしました。 その上で, 「直接的に身体的及び精神的苦痛を受け,経済的負担を負う被控訴人としては,性行為という共同行為の結果として,母体外に排出させられる胎児の父となった控訴人から,それらの不利益を軽減し,解消するための行為の提供を受け,あるいは,被控訴人と等しく不利益を分担する行為の提供を受ける法的利益を有し,この利益は生殖の場において母性たる被控訴人の父性たる控訴人に対して有する法律上保護される利益といって妨げなく,控訴人は母性に対して上記の行為を行う父性としての義務を負うものというべきであり,それらの不利益を軽減し,解消するための行為をせず,あるいは,被控訴人と等しく不利益を分担することをしないという行為は,上記法律上保護される利益を違法に害するものとして,被控訴人に対する不法行為としての評価を受けるものというべきであり,これによる損害賠償責任を免れないものと解するのが相当である」 として,女性には男性から「不利益」を分担する行為をしてもらう法律上の利益があり,男性には女性のために「不利益」を軽減,解消するための行為を行う義務があると解釈しました。 男性がこの義務に違反すること,それが女性の法律上の利益を侵害する行為なのであり,すなわち不法行為にあたるというわけです。 東京高裁は,「どうすればよいのか分からず,父性としての上記責任に思いを致すことなく,被控訴人と具体的な話し合いをしようともせず,ただ被控訴人に子を産むかそれとも中絶手術を受けるかどうかの選択をゆだねるのみであった」男性は,この義務を履行していないと評価しました。 続いて②についてです。 この東京高裁の判断に基づけば,女性は男性にどこまでの請求が可能なのでしょうか。 まず東京高裁は, 「その損害賠償義務の発生原因及び性質からすると,損害賠償義務の範囲は,生じた損害の2分の1とすべきである。」 と言っています。 上に見てきたように,女性が負担する「不利益」を男女で分担するということからすれば,女性にも当然負担すべき割合は残るのであり,男性に100%かぶせることはできないだろうといった理解だと考えられます。 今回の裁判例の第一審である東京地裁の事実認定によれば, 女性は,妊娠中絶後に心身症の胃炎,不眠症,重篤なうつ状態といった精神的疾患等を発症し,現在においてもその症状が残存していることをおもな理由として,慰謝料の総額は200万円であるとしました。 そして,妊娠中絶にかかった医療費や上記疾患にかかった治療費の合計は実費で合計68万4604円と認定しました。 「生じた損害の2分の1とすべき」という東京高裁のロジックに則れば,女性が男性に請求できる金額は,268万4604円の2分の1である,134万2302円ということになります。  

4 むすび

今回ご紹介した裁判例は,あくまで特定の事例に基づいて判断がされたものです。 そのため,ケースによっては,「2分の1ずつ」という負担割合が変わったり,不法行為がそもそも成立しないということもありうるということです。 もっとも,東京高裁のロジックは男女の性差に着目し,その実質的な公平を図ろうという意図が感じられ,共感できる部分が多いように感じています。 今後,このロジックがより一般的な概念として普及,流通していくのではないかと考えています。